枚方宿あれこれ

東海道の設置

徳川家康は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利した翌年から、江戸と京を結ぶ東海道に宿駅の設置を始めました。

その後、幕府は豊臣氏の滅亡(1615年)により大坂城を手中におさめると、大坂城代を設けて、上方と西国の支配の根拠地としました。

そのため、東海道を大坂まで延長することが必要となり、江戸・大坂間を東海道と定めました。しかし、一般には東海道は品川宿から大津宿までの53宿とされ、京・大坂間は京街道あるいは大坂街道とよばれました。

 

枚方寺内町の形成

枚方は京・大坂の中間に位置し、古くから交通の要衝でした。

16世紀半ばには、枚方丘陵先端部付近に枚方寺内町が形成されていました。

永禄2年(1559年)に石山本願寺から枚方御坊に入寺した蓮如の13男実従は、その日記『私心記』に、寺内町に隣接して岡、三矢の集落があったことを記しています。

実従は三矢口から淀川の船に乗っており、この頃の枚方寺内町と三矢は一体的な町を形成していたと考えられます。

 

枚方宿成立前の様相

石山合戦時に枚方寺内町は灰燼に帰しましたが、天正15年(1587年)と同19年(1591年)、山科言経が摂津中嶋本願寺寺内から上洛する途中、昼食をとった場所として「枚方」が登場します(『言経卿記』)。

この「枚方」は江戸時代の三矢村付近を指すものと考えられ、淀川の川岸付近も含む地名として使われていたことがわかります。

 

枚方宿の成立

文禄5年(1596年)、豊臣秀吉が大坂城と伏見城をつなぐ交通路として淀川左岸に文禄堤を築きました。

江戸時代にはこれがそのまま東海道の延長部として整備され、枚方宿が設けられることになりました。

東海道の宿場の指定は寛永年間(1624年〜1644年)に完了しました。

枚方宿の設置年次は明確ではありませんが、隣の守口宿が元和2年(1616年)の設置なので、ほぼ同時期であったと考えられます。

 

宿駅の意味

枚方宿の「宿」は「やど=旅籠・宿所」ではなく、宿駅を意味します。貸客の運搬に要する人馬を継ぎ立てる設備のある中継所のことです。

江戸、大坂、京などの荷物の発着場所には宿はなく、伝馬役所がありました。

例えば、江戸城から京都所司代へ送る場合、江戸伝馬役所が江戸城から荷物を預かり、品川宿に送り、最初の継立が行われます。そして52回の継立を繰り返しながら大津宿に到着した荷物は、大津宿から京都所司代へ届けられました。

 

人馬役の負担

東海道各宿は貨客を運搬するため、原則として100人の人足役と100匹の馬役が課せられました。

枚方宿では人馬役を4村で分担し、各村は持高を基準に村内の住民に割り当てました。

しかし人馬役の負担者が自ら馬を飼ったり人足に出ることはなく、それぞれ馬や人足を雇う費用を金銭で負担しました。

 

枚方宿4村

枚方宿は岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の4村からなります。

三矢村は文禄3年(1594年)に太閤検地を受けましたが、岡村・岡新町村は対象にならず、寛永12年(1635年)がはじめての検地だったようです。

泥町村の検地帳は残っていませんが、検地が未実施の村に人馬役を負担させることは不可能なので、三矢村単独もしくは、三矢村と泥町村が先に、遅れて岡新町村と岡村が枚方宿に組み入れられたと考えられます。

宿の中心施設である問屋場や本陣、高札場などは三矢村に集中していました。

 

京街道4宿

京街道の4宿はそれぞれに特徴があります。伏見宿は家数・人口とも圧倒的に多く、東海道随一の規模を有します。

淀宿は伏見宿に隣接するため宿泊大名は少なく、旅籠数も僅かです。

守口宿は大坂に近いので人足役のみで、馬役負担はありません。

枚方宿は、東海道の各宿と比較すると、平均的な規模を有しており、旅籠数が多いことに特徴があります。

 

枚方宿の支配構造

枚方宿4村は、高槻藩預り所となった幕末の一時期を除いて、ほとんどの時期、幕府代官による支配を受けました。

同時に、宿場としては道中奉行の管轄下にあり、一般の裁判権は大坂町奉行にあるなど重層的に支配されました。

宿役人は文政期(1818年〜1830年)頃から岡新町村・岡村、三矢村・泥町村の2村ずつが年番交代で勤めるようになりました。天保13年(1842年)の記録では、問屋、馬差、人足方、惣代など2名ずつおかれていたことがわかります。

問屋は宿の業務を指揮監督する最高責任者で、両村の庄屋が兼務しました。

 

枚方宿の通行者

枚方宿は、西国方面から大坂を経由して京や東海道方面に向かうときに利用されました。西国大名の参勤交代やオランダ商館長の江戸参府などは大坂で宿泊することが多く、枚方宿で昼休憩をとりました。

枚方宿の記録をみると、紀州藩大名行列、大坂城大番衆・加番大名、献上備後畳表、長崎奉行荷物、御金銀通行を「五口」の通行と把握していたことがわかります。

武家の公式通行は安い公定運賃か無賃であるため、宿場に大きな負担がかかりました。

紀州藩の大名行列は屈指の大部隊でしたので、参勤交代のたびごとに常時宿泊するようになると、枚方宿にとって最も負担が大きい交通となりました。

 

享保の象

享保13年(1728年)6月13日、将軍吉宗が注文した象が、交址国(現在のベトナム)から中国船に乗って、長崎に入港しました。

象の渡来は室町から江戸時代に7回記録されています。享保の象は、約130年ぶり6回目のことでした。

象は歩いて江戸へ向かうことになり、翌年3月13日に長崎を出発し、5月25日に江戸へ到着、途中4月24日に枚方宿で宿泊しました。

同月28日には、京都で宮中に参内し霊元法皇、中御門天皇が見ることになります。天皇に拝謁するには官位が必要なため、象は「広南従四位白象」に叙せられました。

 

枚方宿のにぎわい

街道筋には、旅籠屋や煮売屋のほか、古道具屋、醤油屋、荒物屋など、いろいろな商店が並んでおり、酒造業や油絞業を営む家もありました。

元文2年(1737年)の岡新町村は総戸数91戸中40%にあたる37戸が商工業に従事していました。

岡村では慶応3年(1867年)に76戸が商工業従事者で、明治7年(1874年)の総戸数88戸で計算すると86%を占めます。

 

枚方のくらわんか舟

枚方のくらわんか舟は、寛永12年(1635年)、柱本(高槻市)の茶舟株20株のうちの1株、亀屋源三郎が枚方へ出向したことに始まりました。

枚方船番所の公用を柱本の茶舟が勤めていては急用の場合に支障をきたすため、枚方に派遣されたとのことです。

その後、枚方のくらわんか舟は次々と数を増やし、地理上の有利さから次第に勢力を持つようになりました。

 

文禄堤と枚方宿

文禄堤は、豊臣秀吉が伏見城を中心とした水陸交通網整備の一環として毛利輝元・小早川隆景・吉川広家などの大名に命じ、淀川左岸に築かせた堤防です。文禄5年(1596年)に工事が行われ、既存の堤を一部利用するなどして完成しました。

堤の上は当初から、伏見城〜大坂城間を結ぶ重要な交通路として利用され、江戸時代には東海道の延長部として道中奉行の管理下に置かれました。

堤の法面は造成されて屋敷地となり、町家が建ちました。屋敷地と街道筋は淀川の水位上昇のためなど、様々な経緯を経て嵩上げされ、現在の高さとなりました。

 

くらわんか茶碗

「くらわんか手」あるいは「くらわんか茶碗」と呼ばれるどこか暖かみのある茶碗は、肥前波佐見(長崎県波佐見町)の窯で大量に焼かれた磁器です。

この種の茶碗は厚手で、胎土は灰色がかり、にぶい青色(呉須)で簡単な文様が描かれています。

高級品ではなく、日常雑器として普及しました。全国各地で出土しますが、枚方あたりで営業した煮売茶舟(くらわんか舟)が用いたことから、後世このように呼ばれるようになりました。

なお、「くらわんか舟」では、唐津焼、美濃焼、あるいは古曽部焼なども使用されました。

 

枚方宿の町家

町家は、農家と比べて間口が狭く、奥行が深いことに特徴があります。

枚方宿の町家も間口2間半から4間のものが多く、3室の居室を縦1列に並べ、その片側にトオリニワを配するのが基本形式で、カマヤ(炊事場)は裏手に設けられます。

鍵屋のように、カマヤを表側に設ける遺構はほとんど残っていませんが、煮売屋などカマドを使う商売をしていたものと考えられ、かつては多く存在したと推察されます。

 

東見附と西見附

枚方宿の東と西の入口を東見附・西見附と呼んでいました。

東見附は天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵で囲われた松が植えられていました。

『河内名所図会』(享和元年-1801年)には、淀・伏見方面に向かう大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれています。

 

天野川

元文2年(1737年)の『岡新町村明細帳』によると、天野川には長さ17間、幅3間1尺の板橋が架かっていて、岡新町・岡両村が共同管理していましたが、修繕・架替の費用は幕府が負担していました。

紀州徳川家は参勤交代の際、枚方宿に宿泊しました。天野川を渡る際には、既存の橋の上流に専用の仮橋を架けさせました。

通行が近づくと、紀州藩から道路・本陣・橋などの点検役が来て、大坂町奉行所や支配役所からも出役が派遣されました。

 

枚方宿を通行した外国人

江戸時代を通じて多くの旅人が枚方宿を通行しました。ときには外国人の旅行者が、枚方宿のことを記録に残しています。ケンペル、申、維翰、ツンベルグ、シーボルト、アーネスト・サトウなどです。大坂・京都間のほぼ半ばにある枚方宿では、休憩・食事をとることが多かったようです。

彼らのうち、枚方宿の様子を詳しく記しているのは、ケンペルとシーボルトです。両人ともドイツ人で、オランダ東インド会社の商館長の江戸参府に医師として随行しました。

シーボルトは「枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私に祖国のマインの谷を思い出させるところが多い」と想起しています。

 

【参考文献】

・市立枚方宿鍵屋資料館展示案内(枚方市教育委員会)

・東海道枚方宿(枚方市教育委員会)

・郷土枚方の歴史(枚方市史編纂委員会)